Beerich YEASTを褒める、あるいは、村上春樹とオムレツと私

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 「良いバーはうまいオムレツとサンドウィッチを出すものなんだ」と言ったのは、村上春樹が書いた『羊をめぐる冒険』に出てくる「僕」だ。

 私が最初に村上春樹を読んだのは、おそらく『ノルウェイの森』で、確か高校生のときだったように思う。その小説を読んで以来、私は村上春樹のファンだし、ほとんどすべての本を読んでいると思う。高校生のときの修学旅行の感想文集に、十六歩的世界の文章をコピペして提出したくらい好きだったし、それはいまでも変わらない。『1Q84』がそうであったように、新刊が出るのを楽しみにし、発売日に購入し徹夜して読むことの幸せは何事にも代えがたいものだ。村上春樹を読んでいなければ、柴田元幸を知ることもなかっただろうし(彼の授業に出たこともある)、岸本佐知子のような翻訳者も知らなかったであろう。

 村上春樹のいわゆる羊三部作に出てくる「僕」の姿に、私は「大人になったらこのように生きたいものだ」という理想を重ね合わせてきた。なるべく社会との距離を置き、「やれやれ」と言っていたら魅力的な女の子と寝られる、そういった世界だ。しかしながら、現実はそうではない、ということを次第に学習していくことになるのだが。

 冒頭に述べたように、「良いバーはうまいオムレツとサンドウィッチがある」というのが、大人になっていく過程の私が、大人の現実の世界に持っていた幻想の一つだ。しかしながら、みなさんご存じのように、私のような庶民でも入れるバーの中で、良いと思えるバーで、その中でもおいしいオムレツを出すバーは少ない。ここは強調しておきたいところだが、実に少ない

 そして、ここまで文章を書いてきて本題に入りたいのだが、錦糸町にある「Beerich Yeast」というバーでは、とてもおいしいオムレツが食べれる。多くのお店で「単にオムレツだけじゃつまんないから、なんか適当に野菜とか入れてアレンジしちゃおうかな」と思い「スペイン風オムレツ」などとスペインに行ったこともないようなスタッフが作るようなオムレツとは全く異なる。チーズオムレツは、チーズの味がついたオムレツであり、それ以外ではない。それはまさしくオムレツであり、オムレツ以外のなにものでもない。そういうオムレツなのである。

 カウンターで私がチーズオムレツを注文する。おもむろにカウンターの中のスタッフがオムレツを作り始める。その姿はオムレツを作ることにとても集中していて、話しかける雰囲気ではない。カウンターの中のスタッフは、お客さんのビールの進み具合を見ながら、お客さんにとって適切なタイミングで話しかけることが必要とされるのだが、彼がオムレツを作っている間は、お客さんの誰もが彼のオムレツ作りを邪魔しない。そのようにして作られたオムレツは、私の経験では最もおいしいオムレツと言っても過言でない。

 Beerich Yeastは、地ビールが生で飲める貴重なお店であり、雰囲気が非常に良く、駅からも近く、スタッフも適当な距離を保って話をしてくれるし、いやもう褒めるしかないのだが、特にオムレツのすばらしさを強調するより仕方がない。学生さんを連れていきたいか、と言うと、学生さんがこのお店に来るのには10年くらい早いと思うので、あまり連れていきたくはない。もしおいしいビールを飲みたい方で、錦糸町の近辺に来る機会がありましたら、ぜひ行ってみてください。